サッカー少年諸君に告ぐ。

紺色に沈む山嶺のようでなければならぬ。

#2 日本人選手が世界のトップクラスで通用するために。

  世界で通用する選手になるためにまず、最も大切なものとはなんだろうか。

 

 日本人小学生は世界大会に出ても、実は世界のトップクラスのレベルに混じりながらも、なんら見劣りすることなくプレーすることができる。むしろ輝かしい成績を収めることもある。

 しかし、それも小学校までで、ジュニアユース(中学生)、ユース(高校生)となってくると、その差は歴然としてくる。だが、技術的なレベルは、世界の頂点にも達しようかというレベルなのである。それは世界中で度々口にされる、「日本人は練習が世界で一番上手い」という話である。しかし実際のワールドカップでは…。残念ながら総合的なレベルは程遠いものとなっている。

  この問題は日本の文化的なものに起因し、根深い問題であると私は捉えている。ほれは何かと言うと「闘争心」であると感じている。日本では感情を剥き出しにすることは美しいとはされない。怒りや悲しみ、時には喜びも内に秘することを美徳とする文化がある。剣道の一本の後に喜びの感情を表出させた場合は、一本を取り消される、という規則にもそれは色濃く残っているように。

  しかし、それは感情を"抑える"事とは、本来違うものである。爆発的な感情を持っていても、平然と振る舞うことが美しいのだと思う。それが曲解され、感情の量が少ない子どもが増えているように感じる。

  サッカーでもなんでもスポーツは戦争が起源にあると私は思う。大量殺戮の先で、お互いの愚かさに気付き明確なルールを作り、戦いを舞踊の地位にまで高めたものがスポーツである。このことを忘れてはならない。

  戦いとは、やるかやられるかということである。やらなければ、やられるのである。それが"嫌だ"とどれだけ思えるかどうかが勝敗を分けるのだろう。それは負けず嫌いであるとか、上に私も述べた"闘争心"であるとかいう言い方をされる。

  秘すれば花となる日本の文化圏において、感情を「殺す」のではなく、「(持ちながらも)隠す」という術を、日本の小学生には覚えてもらいたい。もっと言えば、感情はボールに乗せる、という術を身につけてもらいたい。

 

さあ、われわれはひとつになって。